松山寺

松山寺(しょうざんじ)は石巻市針岡(はりおか)にある曹洞宗のお寺です。
二十六世の雄峰和尚は海藏庵十八世の典雄和尚の法幢師にあたり雄峰和尚が遷化した後親戚にあたる登米市東和町東昌寺二十世の丈貞(丈は旧字)和尚が兼務し丈貞和尚の遷化後は(雄峰和尚の首座の)海藏庵の典雄和尚が兼務するようになりました。



 歴史

針岡も尾崎と同じく古くから歴史があり仁徳天皇の御代(367年)征夷討伐にきた田道将軍の配下に平塚某という武人がおり田道将軍が戦死したあと針岡の地に土着し有力な豪族となったとの伝承も伝わり後に山内首藤家の家臣となり針岡鳥谷森にある館山城に居住していた平塚将監長重はその後胤で葛西時代には葛西家の家臣となり葛西家滅亡とともに滅びたとされています。
松山寺も海藏庵と同じく火災にあい寺暦等は不明ですが下記に記しました「清水寺縁起」には(真偽はさておき)清水寺(松山寺)に弘法大師が来て自作の本尊を収めたとか鎌倉公方足利持氏の嫡男で永享の乱の時父の持氏とともに自害したとされる義久は実は針岡の地に落ち延び松山寺の開基となったなどと(日本史の定説を覆す)驚くべき記述があります。清水寺縁起は戦後雄峰和尚が依頼して松山寺の開基家とされる石巻市針岡の佐藤家(屋号は岳仙)に代々伝わる古文書を当時の当主(?)に書写していただいたとあります。


 宗派 曹洞宗(禅宗)
 本山 大本山永平寺 大本山總持寺
 本尊 釈迦如来
 本寺 雪峰山天雄寺(石巻市雄勝町)
 山号・寺号   羽黒山・松山寺

 歴住

開基   松山貞公大禅定門

開山   洲山見爺大和尚
(雄勝天雄寺五世)  
二世   白爺天竜大和尚
三世   寒室等覚大和尚
四世   名岩浄誉大和尚
五世   通天達山大和尚
六世   髙巌良幢大和尚
七世   完玉貞全大和尚
八世   眠山石外大和尚
九世   天眞誉全大和尚
十世   雲山白龍大和尚
十一世  聖麟本悦(祝)大和尚
(尾崎海藏庵十二世)
十二世  一法玄乗大和尚
十三世  玄心一乗大和尚
十四世  恵山禅海大和尚
十五世  洞林文牛大和尚
十六世  穏界宗顕大和尚
十七世  大應梅室大和尚
十八世  貴山祖庭大和尚
十九世  桃獄隆芳大和尚
二十世  玄機秀道大和尚
二十一世 梅庭恭淳大和尚
二十二世 佛契實門大和尚
二十三世 東崖隆温大和尚
二十四世 徳海成俊大和尚
二十五世 東江俊應大和尚
二十六世 天山雄峰大和尚(中興)
(姓 松木)
兼務   法山丈貞(丈は旧字)大和尚
(姓 松木 登米東和町.東昌寺二十世)
兼務   辺海典雄大和尚
(姓 佐竹 尾崎海藏庵十八世)
現住   禅海泰生
(姓 佐竹 永井浄音寺徒弟.海藏庵住職)



 清水寺縁起

清水寺(現松山寺記録)

御冷泉天皇御代人皇七十代一七〇六年安倍貞任ハ安倍頼時之子父ト共陸奥ニアッテ朝廷命ニ従ハズ依テ朝廷ハ源頼家双ニ義家ヲ以テ討タシメ前九年後三年間苦シメ頼家ラガ出羽之清原武則ノ助ヲ得テ衣川ノ舘厨川ノ城ニ於テ之戦ニ貞任ハ傷ツキ捕ヘラレテ死ンタリ年四十四才弟宗任ハ義家ニ従フテ下臣トナル残兵ハ陸奥牡鹿半島一帯ニ散兵ハ蟄居ス漁農ニ従事シ其後宗任僧トナリ陸奥ニ来リテ兄ノ慰霊方々再興ヲ斗延久年中一七二五前本吉郡雄勝濱雷峯之麓ニ天雄寺ヲ建立献上山ノ山頂ニ月山権現祭逆川ニ湯殿山権現ヲ祭ル針岡ニハ羽黒山権現ヲ祭ル清水寺ヲ建立然レドモ安倍頼時ノ全盛ノ時天喜年中ニハ破レテ貞任ハ死ス日増盛ンニナリ再興ヲ起テ様ト到セドモ事ト成ラズ遂ヒニ藤原秀衡之時代トナリ金花山髙八十丈廻リ三十二里山ノ形五峯溪ニハ四十八寺ヲ置キ金花山大金寺ト云フ雄勝ト針岡ニハ伽藍又ハ七堂ヲ建立ス雄勝濱ニハ坊ケ澤味噌作七十四坊ヲ置キ最モ秀衡ハ献上山金花山甚ダ此ノ山ヲ信仰ス移ニ造立羽黒山清水寺ノ本尊薬師ハ□□□□□ナリ半服田束寂光本尊天竺金観音北嶺羽山金□□□尊弥陀秘佛母衣同七堂ヲ祭ル(今松山寺)秀衡ハ本吉四郎髙衡ヲ三山神ノ祭礼トス大ニ繁昌ス秀衡全盛ノ時其後藤原秀衡ハ源頼朝公ニ討タレ没落ス全盛之時ハ各部落ニ御獅舞悪病□□萬邊等悪病祓ニ南無阿弥陀佛ナンメーダンフツ又ハナ□□□□言フ事モ其ノ時ヨリ始マリト云フ安倍ハ天喜中ニ亡ビ藤原ハ文治五年ニ亡ブ朝廷ハ頼朝公之臣葛西氏ハ領ス(時ハ永享十一年将軍爭ノ為破レテ落テ此地ノ松山寺ノ義久公ハ寺掌ト成ル)葛西氏ハ再興シテ四十余坊ヲ置キ千葉刑部寺社奉行トス山伏三人ニテ寺掌ト成ル内一名ハ義久公葛西ハ伊達ニ天正十八年ニ亡サレ其後寺坊施ス松山寺火災ニナリ重宝品ハ焼失ス天雄寺モ焼ケ長録年中再建ス雄勝濱(但シ松山寺ノ清水寺ハ天雄寺同時建立ナリ三山建立ニ明カナリ安倍時代藤原全盛□□
一、 天台宗ノ僧宗任ノ創立トアレドモ天喜中安倍ノ全盛ノ時ナリ 藤原時代□□誤リ 大和系
一、 全盛代 清水寺ニ弘法大師来リ本尊像ハ作ナリ
一、 秀衡後亡岳仙坊ハ葛西ノトキ再興ス松山寺ト改ム永享十一年(松山貞公大禅定門義久公賢王足利七代将軍タル人人ハ東北針岡ニ落チコレヨリ戦国時代ト化ス今日トナリテハ平民ノ代トナル)
昭和二十八年十二月八日

松山寺殿

源朝臣 足利公方家 正統者 岳仙坊子孫 七十二才書
家宝書ヨリ写ス納ム

当 二十六世天山雄峰依頼ス



 欠損
 国構えに中は上からノツ旧
 偏は酉で旁は上が西で下は且
 偏は巾で旁は上が羽で下は光 幌か?
 偏は日で作りは専の旧字 

 



下記の文書は上記の「清水寺縁起」と前半部分の内容が同一なので同じ方が書かれたものと思われますが参考のために載せておきます。特に後半部分は針岡の歴史を知ることができ興味深いです。
個人名(○○)は伏せておきます。部分は解読が不能な文字です。また現在では好ましくない文言や文字さらには誤字等がありますがなるべく原文のまま記載いたします。変換できない旧字は現在の字に改めています。

由緒古文書 屋号岳仙○○氏の叔父塩釜市在住の子孫の秘蔵の家宝より写す
御冷泉天皇御代人皇七十代(一七〇六年)※1安倍貞任ハ安倍頼時之子父ト共陸奥ニアッテ朝廷命ニ従ハズ依テ朝廷ハ源頼家双ニ義家ヲ以テ討タシメ前九年後三年間苦シメ頼家ラガ出羽之清原武則ノ助ヲ得テ衣川ノ舘厨川ノ城ニ於テ之戦ニ貞任ハ傷ツキ捕ヘラレテ死シタリ。年四十四才弟宗任ハ義家ニ従ッテ下臣トナル残兵ハ陸奥牡鹿半島一帯ニ散兵ハ蟄居ス漁農ニ従事シ其後宗任ハ僧トナリ陸奥ニ来リテ兄ノ慰霊方々再興ヲ斗延久年中(一七二五年※1前本吉郡雄勝濱雷峯之麓ニ天雄寺ヲ建立。献上山ノ山頂ニ月山権現祭ル逆川ニ湯殿山権現ヲ祭ル針岡ニハ羽黒山権現ヲ祭ル清水寺ヲ建立ス然レドモ安倍頼時ノ全盛ノ時天喜年中ニハ破レテ貞任ハ死ス日増盛ンニナリ。再興ヲ起テテト到セドモ事ト成ラズ遂ヒニ藤原秀衡之時代トナリ金花山髙八十丈廻リ三十二里山ノ形ハ五峯溪ニハ四十八寺ヲ置キ金花山大金寺ト云フ雄勝ト針岡ニハ伽藍又ハ七堂建立雄勝濱ニハ坊ケ澤味噌作七十四坊ヲ置キ最モ秀衡ハ献上山金花山甚ダ此ノ山ヲ信仰ス移ニ造立羽黒山清水寺ニ七堂ヲ祭ル(今松山寺)秀衡ハ本吉四郎髙衛ヲ三山神ノ祭礼トス大繁盛ス。秀衡全盛ノ時。其の後藤原秀衡ハ源頼朝公ニ討タレ没落ス。全盛ノ時ハ各部落ニ御獅舞悪病退散百萬邊等悪病祓ニ南無阿弥陀佛ナンメーダンフツ言フ事モ其ノ時ヨリ始マリト云フ安倍ハ天喜中ニ亡ビ藤原ハ文治五年ニ亡ブ朝廷ハ頼朝公之臣葛西氏ハ領ス(時ハ永享十一年将軍爭ノ為破レテ落テ此地ノ松山寺義久公ハ寺掌ト成ル)葛西氏ハ再興シテ四十余坊ヲ置キ千葉刑部寺社奉行トス山伏三人ニテ寺掌ト成ル内一名ハ義久公葛西ハ伊達ニ天正十八年ニ亡サレ其後寺坊施④ス松山寺火災ニナリ重宝品ハ焼失ス。マタ雄勝天雄寺モ焼ケ長録年中再建ス
(一)天台宗ノ僧宗任ノ創立トアルモ天喜中安倍ノ全盛ノ時ナリ
(一)全盛時代清水寺ニ弘法大師来リテ本尊像作ナリ
(一)秀衡亡後岳仙坊ハ葛西ノ時再興ス永享十一年松山貞公大禅定門義久公賢王足利七代将軍タル此人ハ東北ノ針岡ニ落チコレヨリ戦国時代ト化ス。トアル
雄勝浜雪峰山天雄寺五世州山見爺和尚が応仁元年七月二十八日(一四六七年)※2の開山である。永享十一年は応仁元年より二十八年前であるから開山後五百三十九年の歳月をけみしている。また過去帳に天保七申年此年七八申酉両年大凶歳玄米壱舛ニ付四百文壱歩ニ四舛イタスト聞當寺且家九十六軒此年ヨリ四十余國中死亡退轉ノ者幾万人数ヲ不知此時大乱世馬喰ヲコロス者遠近ニ有由セツヲノカルモノ能命ミヤウガアリ。ツヨキ者ハイキヨワキ者ワシス十八世記とある。境内に辯才天石像一尺七寸建立年号不明また鬼子母神石像文久二年四月吉日建立あり。母乳の少ない母親は主願をする満願にて小豆一舛を献上する。弱い子供は取子として願をかける。春三月二十八日大祭典有り遠近より多数の参詣者がある。また松山寺より数分歩くと館山城々主平塚将監あり将監は館山に居館を構え山内首藤刑部少輔貞通の家臣である。平塚将監が永正九年(一五一二)※2葛西滅亡まで産業の開発と文教振興のため努力された。平塚という武人が我が針岡に現われたその姿大剣を佩し武装もいかめしいので針岡の住人はおどろきの目を見張り且つ危害の及ぶことを恐れ平塚も住民の気色のようでないことを察して言ふのには吾れ決して住民に危害をくわえるものではない永くこの地に留り地方産業の開発のために尽す覚悟だから安心せよ云々と。しかし住民はどうしても聞き入れないので平塚はとうとう佩剣をすて誠意を示したので住民は安堵の胸をなでおろし平塚も誠意をもって地方開発のために尽力した武人であった。平塚将監のその先祖は田道将軍の家来で針岡開発の恩人である。そのごの行方はわからない。今から四百六十六年前の城主その後はいわゆる古城趾となったのである。現在古碑が建っている。また佩剣を埋めた剣塚下僕坂等の遺跡が残っている。
環境 主要道路の県道福地の東北端福地水門を通り谷地から入って富士沼の周囲をまわって下僕坂を下って針岡松山寺がある。一千五百二十余年前に開いた此の坂はいつのまにかひさ坂と呼ぶようになりいまでは立派なバス道路になって毎日上り下り四往復あり富士沼は富士川の水源地であり南北に長く東西に短く周囲約一粁大川最大の沼である。針岡に石浜芦浜丁字浜追館等の地名でもわかるように昔は海であることがはかる。境内には巌ノ上に松の木が繁ってる開基前にあったと思ふ。これにて松山寺々号になったのだらうとおもふ。そのた数点の寺宝がある。

※1 皇紀と思われる。
※2 西暦