遠島物語

 尾崎の歴史

尾崎には縄文時代~中世まで比較的多くの遺跡が存在しています。
特に縄文時代と中世のものが多くみられますが弥生時代の遺跡は確認されていません。縄文時代の遺跡としては長面浦の奥にある大浦貝塚があり隣接する大浦遺跡からは古墳時代~古代の須江器が採集・発掘されています。中世の遺跡としては館跡と板碑群が大部分で館跡は長面浦に面して宮下館跡・大浦館跡・滝浜館跡があったとされていますがいずれも明瞭な遺構は確認されていません。また山麓の数ヶ所に砂鉄で鉄を作った烱屋(どうや)跡があり付近には鍛冶間という地名もあります。
尾崎周辺は中世には公領の遠島(遠嶋・としま)その後は桃生郡(ものうごおり)に属していたと考えられてます。近世までは隣の長面浜・釜谷浜と一緒に南側の雄勝半島と一体となり「十五浜」と称されていました。
北上川下流域の中世の状況は桃生郡は深谷保を長井氏が支配しその他の地域は山内首藤氏が支配していたとされており隣接する石巻市を含む牡鹿郡は葛西氏の所領であったと考えられています。一方牡鹿半島と桃生郡内の浜は「遠島五十四浜」と呼ばれ鎌倉時代には北条氏の直轄領であったと考えられており南北朝以後に葛西氏が支配したものとされています。このようなことから尾崎は鎌倉時代は北条氏それ以後は葛西氏の支配下にあったものと思われます。

十五浜  雄勝湾~追波湾までの雄勝半島周辺…分浜(浪板)・水浜・雄勝浜(唐桑~伊勢畑)・明神浜・小島浜・大浜・立浜・桑浜(羽沢)・熊沢浜・大須浜・船越浜(荒)・名振浜の旧雄勝町十二浜に尾崎浜・長面浜・釜谷浜の旧河北町の三浜を加えて十五浜と言うそうです。
ちなみに追波湾の北に位置する旧北上町には十三浜(相川浜・追波浜・小滝浜・小泊浜・大指浜・小指浜・白浜・立神浜・月浜・長塩屋浜・大室浜・小室浜・吉浜)と呼ばれている地域もあります。

現在でも檀信徒数は50数戸ですが明治以前は更に少なく20戸程であったといわれています。しかし当地は豊かな漁場が近く江戸や鎌倉から奥州にいたる海運の航路である旧追波川(現在の北上川)の河口(追波湾)の南に位置し軍事・交通の要衝であり船溜・風待ち港でもあったため鎌倉時代には公領として幕府が管理しその後葛西氏(あるいは山内首藤氏か)藩政時代には伊達氏の直轄領(対岸の北上町橋浦地区は重臣である片倉家の領地であり江戸末期まで豊臣秀吉から拝領した軍船小鷹丸が係留されていたそうです)として管理されていた場所であり海運や漁業・製塩等を生業とした裕福な家が多く数件の檀信徒でお寺を維持していたということです。
たとえば当庵の檀信徒で江戸時代に船問屋を営んでいた旧家には光明皇后御真筆の「金泥写経本」(一部)という文化財級(鑑定済)の美術品があります。また郷土史家の紫桃正隆先生の著書に滝浜城は相州横須賀出身の「武山党・武山十郎右(左)衛門」の居城であり宮下囲には「朝日長者」なる者が居住していたとの記述もあります。
余談ですが武山党は葛西氏が伊達氏に滅ぼされた時に長面浦(滝浜城)から北に逃げてたどり着いた所が小滝浜(十三浜)であるとの話も聞いたことがあります。なるほどと思うのは(なんとなくですが…)北上町以北には武山姓が多いような気がします。


 よりともさま

当庵は天台宗の後に臨済宗の寺院でしたがそれ以前から海運を祈る観音様や農耕の神様などをお奉りしたり先祖供養の為(主に三十五日供養)に自然石に近い板石に文字などを刻む「板碑」が周辺に納められていました。
尾崎地区にある全板碑の約8割にあたる160基以上が海藏庵に納められています。
これは県内では名取市大門山遺跡に次ぐ数です。その中でも特に目を引くのが地域の人々から「よりともさま」と呼ばれている板碑です。海藏庵裏手に続く急勾配の坂道に主となる板碑とそれを囲うように板石が左右・背面・天井にあり(石堂風)またその左右にはほぼ同じ大きさの板碑があり縦三行に「キャカラバア(空風火水地)」と記され梵字には金泥が塗ってある県内には他に例をみない大変珍しい板碑があります。


これは板石の大きさが整えられていること主となる板碑を囲う板石と脇にも板碑が収められたという他には見られぬ様式美(近いものとして鎌倉にヤグラというものがあると聞いたことがあります)さらにこの板碑よりも高い位置に他の板碑は納められていないといった崇高性がありその他の板碑とはあきらかに異なっています。またさまざまな調査からこの板碑は弘安10年(1278年)造立と判明しています。

源頼朝は正治元年(1199年)に亡くなったと記録されています。弘安10年では78年も過ぎているので頼朝の墓とするには無理がありますが全く関係がないとも言い切れません。


特に「よりともさま」と呼称されることからおそらく公領であり奥州に向かう交通の要衝でもあるこの地を重要な軍事拠点であると考えた鎌倉幕府によって派遣された強力な武士団(玄龍)とその一族を治めた高い権力と支配力そして広く民衆に支持された人物が存在しその人物の死去後(もしくはその親の死去後)一族によって奉られた歴史が長い年月を経て「源頼朝様(より派遣されたあるいは頼朝様に連なる主)の板碑」と変化していったのではないかと推測されます。
なぜ「推測される」と記したかというと安永5年(1776年)の「曹洞宗潮生山海藏庵書出」に「宝暦年中右海藏消失仕候而年数由所(緒)書等消失罷成候無御座候」とありますように様々な記録や寺暦は火事で消失してしまったからです。

部分は欠損


 おまじない

十六世の文雄和尚は十七世の秀明和尚の叔父にあたり十七・十八世~現住職と世襲であります。
当家には何時の頃からか不明ですが一子相伝の「蟲封じ」(むしふうじ)という秘術が伝えられています。
私も子供の頃に先々住と先住が執り行ったのを見たことがありますが、それは所謂「疳の蟲」を封じる儀式で子供の掌や足の裏に墨で何やら呪文を書きお経をあげて祈祷するものです。終わると子供の掌や足の裏から非常に細い絹糸のような「モノ」がたくさん出てきて祈祷は終了します。
今でも大変不思議なのですが調べてみると全国には同様のおまじないがあり現在でも何人か執り行う方がいるらしいです。
一子相伝ですので弟の私には伝わりませんでしたが兄の登米市某寺住職には伝わっていると拝察されます。
檀信徒にも神棚(龍神様?)にお供えした水で喉に刺さった魚の骨を取ってくださる方がいらっしゃいました。妻も一度お願いした事があったのですが簡単に取れたので驚いていました。また子供の頃に祖母に歯の痛みを止めるおまじないをしてもらった記憶もあります。


 やかんざくら

本堂の裏手の山に「やかんざくら」と呼ばれていた古い桜の木がありました。この桜の名前の由来は大津波の時に流れてきた薬罐がかかったから「薬罐桜」とか根元に大きな洞がありそこに風があたるとヒューっと薬罐でお湯を沸かしたような音がするからとか夜に音が聞こえるので夜間桜と呼ばれたとか諸説あります。
この木はお寺からお墓に登る道の途中の海抜20メートル程の場所に崖から真横に生えていましたが残念ながら2016年長寿を全ういたしました。

祖母に聞いた話ですが昭和の初期の頃秀明和尚が寝ていると大変仲のよかった濱畑某という方が枕元に立ったのでこれは亡くなったと直感した秀明和尚は本堂でお経をあげ真っ暗な道を墓地に向かうと薬罐桜のところに件の濱畑某さんが現れたそうでそのまま墓地に連れていって供養したそうです。
当時は電話などありませんから秀明和尚が出かけた後に濱畑某さんがお亡くなりになったので枕経をお願いしたいと親戚の方がお知らせに来たらしく祖母は腰が抜けそうに驚いたと言ってました。


 伊達の黒船

今から約400年前の慶長18年(1613年)仙台藩主伊達政宗が仙台領内でのキリスト教布教容認と引き換えにノビスパニア(メキシコ)との直接貿易を求めてイスパニア(スペイン)国王およびローマ教皇のもとに慶長遣欧使節を派遣しました(政宗はイスパニアと同盟を結んで倒幕するつもりであったと言われています)。その時に使用したガレオン船は「Sant Juan Bautista(サン・ファン・バウティスタ)号」といい政宗はスペイン人ビスカイノと幕府船手奉行の指導・協力を得て建造しました。


造船に必要な材木はすべて仙台藩領から切り出し外板や甲板に使用しました。杉板は気仙・東山(岩手県東磐井地方)方面から曲木は片浜通り(気仙沼地方)や磐井・江刺からそれぞれ伐採し北上川や海を利用して運ばれたと言われています。
東藩史稿によれば大工800人鍛冶600人雑役3000人の人手を使い約45日で建造されたとあります。
史実では建造地は仙台藩・陸奥國水浜(現在の石巻市雄勝町水浜・呉壺)であったとされていますが一部の人達は実は尾崎ではないかと信じています。
何故なら尾崎地区には鍛冶間(永禄年中1558~1570年に切支丹鉄山師と目される千松大八郎・小八郎が招かれ桃生郡福地村の付近などを転々とした後岩手県南の大篭近隣のものに砂鉄の荒吹き法を教えたとの記録もあります)とか漆浜・油壺などと言う造船に関係のある地名が残っていること。
上記の様に磐井・江刺地方や気仙地方から資材を運ぶのにわざわざ危険な外海を通って水浜で作るより北上川の河口に位置する尾崎の方が安全であるというのが主な理由です。
またBautista号は牡鹿郡の月浦から出航したと言われていますが昔は現在の雄勝湾が月の浦と呼ばれていたという説もあり出航地も雄勝ではないかと考えられます。
さらに太平洋を横断し北米・中米に向かうのであれば伊達藩領の中では雄勝湾近辺が最適地であると外国の航海士が証言したとの記録もあるそうです。
この船の建造は政宗に倒幕の意志があるためか秘密裏に進められたので長らく建造地は不明であったとされています(出航地は雄勝湾でほぼ間違いなく建造地は雄勝か尾崎でしょう。特別な理由がない限り建造地と出航地は同じ場所であるのが合理的だと思いますが…おそらく雄勝で建造され尾崎周辺からも資材を集めたのでしょう)。

いずれにしても伊達政宗という人物は何を考えているのか常人には理解できない人です。
余談ですが葛西氏に縁のある石巻地方の人達は葛西氏を滅ぼした伊達氏を嫌いな方が多いです。旧桃生町などでは庭に槐・皀莢(さいかち)の木を植えた家が多くこれは「葛西勝つ」に語呂を合わせたそうです(ちなみに私もあまり好きではありません…合掌)。


 番外編 護良親王(もりよし・もりながしんのう)伝説


護良親王は後醍醐天皇の皇子。幼い頃に出家して天台座主となるが後醍醐天皇が元弘の乱を起こすと還俗し楠木正成と連携しながら鎌倉幕府に対して反乱を続けました。幕府滅亡後の建武の新政下でも足利尊氏と激しく対立しやがて捕らえられて鎌倉に幽閉された後に暗殺されたと言われています。しかし殺害を命じられた渕辺義博(ふちのべ・ふちべよしひろ)は皇子を殺害することは恐れ多いと考え自分の領地(相模原市)に匿まい日野・日下・平塚・福原・遠山・高橋・志摩ら七名の家臣と共に船で牡鹿湊(石巻市)に逃れ南朝方の葛西氏に保護されたとの伝説が石巻・相模原の両所に残っています。
たとえば石巻には御所浦や御所入それに吉野町という地名が残っていますし熱田神社や朝臣の宮といった建造物もあります。湊の一皇子神社は護良親王の墓所で多福院にある吉野先帝御菩提碑は護良親王が後醍醐天皇の供養のために建てたと言われています。

渕辺義博にはもう一つ龍退治の伝説が残っていてそれは義博の時代に(現在の相模原市と町田市の間にある)境川という川の龍池という所に大きな龍が住み着き村々を荒らし回っていました。そこで義博は部下を引き連れて龍退治に向かい龍を退治したというものです。退治された龍の体は3つに分かれて飛び散り龍の頭が落ちた場所に龍頭寺・胴体の落ちた場所に龍胴寺・尾の落ちた場所に龍尾寺というお寺を建立し龍の祟りを封じたと伝えられています。
現在は龍胴寺こと龍像寺が残っているだけですが龍像寺にはこの伝説が伝えられ今も寺宝として龍骨と鏃(やじり)が残されています。


実は私が初めて護良親王の伝説を聞いたのはこの龍像寺の方丈さまからでした。私が石巻出身だとお知りになり方丈さまが何度か行ったことがあると仰ったので理由をお尋ねしたところ護良親王の伝説を教えていただきました。縁のある両所に同じ様な伝説が残っているということはもしかしたら本当なのかも知れませんね。


 お米の因縁

当庵の十七世秀明和尚は現住の祖父にあたり秀明和尚の父親(曾祖父)の秀永和尚は十六世文雄和尚の兄になります。その二人の父親(高祖父)は明道和尚といって桃生町太田の吉祥寺・同神取林昌院の住職を経て米山町桜岡長源寺の二十五世となったのですが早くに遷化なさいました。若い頃は実家の米蔵からせっせとお米を運んで(盗んで…!?)そのお米を売ったお金で遊んでいたらしいです…。長男だった秀永和尚は長源寺の住職の辞令がでる前に遷化したそうでその後弟の文雄和尚が住職になりました。ですから祖父はもちろん父の本籍地も長源寺になっていました。その明道和尚の(お米を盗まれた…)ご実家がお隣涌谷町にあるのですが現在の当主様が震災後(なにかと大変だろうと)わざわざお米を持ってお見舞いにきてくださいました。これはきっとお米の因縁では…?とふと思った次第です。

佐竹秀永 号は東岳 大正9年1月14日長源寺にて示寂 世寿42歳
※②佐竹明道 号は謙山 神取林昌院徒弟 太田吉祥寺二十二世 林昌院十四世 桜岡長源寺二十五世 明治38年6月3日長源寺にて示寂 世寿59歳


 海藏庵の記

霜月半にたらざる日徒然老折海士の船手を望まんと尾の崎といへる浦潟につらなる海藏庵とて一寺あり建久の昔寺中に鎌倉将軍の世に建ていべし尊碑あり苔むして其年ふるもおぼつかなしあはれむべしとの折から即庵にやすらい眼さきにしたしき塩家の煙霞山根に帯てしののめに浦かがやき黄昏に山かげを没し海士の綱手のにぎわいにただようてしばし其の風景に恥じるのみならんや

「鰒汁の仕立 聞ゆる庵の門 奥の且当庵」  直哉樵者

年代・作者とも不明  神山定男氏解読


 長面八景

当地は北上川河口の南岸に2キロ余りも打ち続いていた白砂青松の浜が太平洋に東面した風光明媚な場所であり古から長面八景と称された下記の風物がありました。

一、天神山の海雪 二、天王浦の一つ松 三、入江の釣舟 四、海藏庵の夏の月
五、弘象山の日の出 六、福浦の潮吹岩 七、横手の白波 八、追波の帰帆


  地名の由来

大川地区には珍しい地名が多数あります。
尾崎(尾の崎・おのさき)という地名は長面湾(ながつらわん)と追波湾(おっぱわん)の間に丘陵が突出している地形から生じた地名だと言われています。
長面(ながつら)は長い浜が続いていたことから古くは長津浦(ながつうら)と呼ばれていたものが訛ってながつらと呼ばれ長面という字をあてたと考えられています。
また伝説では大昔長面湾の入り江に白い尾の河馬が棲んでいてこの河馬は入り江の「ぬし」と恐れられていました。その体はおそろしく大きく一目みたら身震いするほど怖い化け物のようでした。
時々水面に浮かんでその姿を見せるのですがそんな時は決まって長い顔は長面の方に向け白い尻尾は尾崎の方に向けていたそうです。そこで元々長津浦と呼んでいた地名を長面と大崎と呼んでいたものを尾の崎と改めたとあります。
釜谷という地名は昔三つの小字がありその位置関係から「鼎の浦」(かなえのうら)と呼ばれていたものがある時期に改められたとあります。釜とは製塩に関係がありアイヌ語では平たい岩が海中で突出しているところをカマとと言ったとあります。
伊達政宗が巡視に来たとき釜谷の入口にあった高さ1.5メートル周囲が15メートルほどの巨岩に韮が生えていたので韮島と名付けたという逸話もあり地名も残っています。

私の解釈では河馬とはカバのことだと思いますが日本に(バカは存在しますが…)カバは存在しないので他の生き物と思われます。また子供の頃聞いた話しでは白馬が流れてきたことになっていましたが河北町発行の資料では河馬が棲んでいたとありましたのでそのまま記載いたしました。ちなみに両浜とも白い馬を飼ってはいけないとされています。 

                                            

 蛇沼の話

昔々長面の龍谷院は蛇沼山と長石山の落ち合う山麓にありました。住職は誠に慈悲深い人で地方では稀に見る名僧であったそうです。
ある夏のこと和尚さんがお茶を飲んでいると庭へパタパタと一羽の燕が飛んできてどこか加減でも悪そうな素振りでいました。和尚さんは庭におりていき「これこれ…どこか悪いのか?」と掌に上げて見ましたがどこも痛んでいませんでした。驚く様子もなかったので「やれやれ…かわいそうに…」と思い親切に飼っておりました。
数日して燕は回復したようでしたのでもう大丈夫だと思った和尚さんは鳥かごの口を開けてやりました。すると燕はピイピイと二、三声お礼でもいっているかのように鳴いてどこかに飛んでいきました。
翌年一羽の燕が鳴きながら飛んできてポトリと何かを落としていきました。和尚さんが拾ってみると一粒の瓜の種でした。和尚さんは不思議に思い畑に植えてみるとやがて芽をだし蔓がのびて大きな甘瓜が一つつきました。
熟した甘瓜を食べようと思い和尚さんが二つに割ると中に小蛇が一匹いるではありませんか!?気味が悪くなった和尚さんは蛇を前庭の小池に放してやりました。
するとこの日は晴れていたにもかかわらず夜になると俄に曇り風も強くなって大雨が降り大木は折れ山は鳴動して大嵐になりました。夜が明けると天気はカラリと晴れましたが不思議なことに前庭の小池は大沼となり激しい浪が岸を洗っていました。
水利が悪く田植えに困っていた農民はこの沼を用水として利用し大変な恩恵を受けることとなりました。以来この沼は蛇沼と呼ばれるようになりました。
それから何年かたったある日のこと村内の喜八という老翁が黄昏時に沼のほとりを歩いていると一人の若侍が声をかけてきて「私はこの沼の主である。この沼は田畑に水をやるために作ったのだ。私はこのあたりの守護神となり水の患いが無いようにするから私を霊現和光明神(原文のまま)として祀りなさい。またこのあたりに棲んでいる片目の蛇は殺してはいけない」と言って消えたそうです。

龍谷院六世中興大恵愚通大和尚と思われる。