海藏庵板碑群

 河北町海藏庵板碑群とは当庵にある有形文化財に指定されている歴史的遺跡を指します。
   詳細は下記URLのファイルよりダウンロードできます。
   海藏庵板碑群  海藏庵板碑群

遺跡番号:66071
所在地: 河北町尾崎字宮下152
調査期間:平成10年6月15日~8月12日
調査面積:400㎡
調査主体:宮城県教育委員会
調査原因:急傾斜地防災工事

対岸から見た海藏庵付近


 長面浦(ながつらうら)に臨む標高17~25mの南急斜面に鎌倉時代後半(弘安十年・1287)から室町時代前半(文安四年・1447)までの100基以上の板碑群が当時の状況を残したまま発見されています。
板碑は傾いてはいるものの元の位置に留まっており斜面を削り出した段に数基~数十基がまとめて並べられています。 中世の頃幕府の直轄領「遠島・渡島」(としま)に属していた尾崎地区は軍事・交通の要衝でありました。
尾崎は伊達氏はもちろんそれ以前の葛西氏よりもさらに前から武士団や水軍の館(たて・やかた)が数ヶ所あったと言われておりこれらの板碑群はそのような一族(玄龍)が追善供養を目的に建立したものと考えられております。現在159基余りが確認されていますが現住が子供の頃は寺の登り口(参道)に多数の板碑が並んでいました。昭和の初期にはさらに多数確認されていましたが工事の際などに棄却されたということです。

 建治年間(1275~1278)の板碑があったとの記録もあります。

発掘の様子

 平成十年の発掘調査では板碑の他十二世紀後半頃の和鏡(水辺秋草双雀鏡)中世の陶器甕・扁平な円礫(供養のために円礫を供える習慣がこの地域にあったとされる)や小刀それに少量の火葬骨(黒塗りの漆小箱に入ったものもあった)寛永通寶・近世の志野焼の破片などが出土しました。現在板碑は寺の入口と本堂後ろの二ヶ所にまとめて移転しています。本堂の裏は急傾斜地ですが板碑を移転した場所だけは昔から平坦(平場)になっており古い時代に祭事を執り行った場所ではないかと考えられていました。


移転後の板碑

 海藏庵から眺めると長面浦が眼下に広がりその向こうには豊かに実る農耕地や家屋が四季折々にさまざまな表情を見せてくれます。この地の歴史は古く現在の海面水位よりも高い位置に多数の貝塚や墳墓が見られます。またリアス式海岸であるため人々の生活は狭い平地と厳しい自然の中で送られたことは想像に難くありません。そのためここに住まう祖先はそのような生活にあわせさまざまな信仰を持ちました。水神様や農耕の神様などを奉るための神社仏閣もこの地には多く見受けられます。

本堂後ろより震災後の尾崎集落を望む


 鎌倉時代奥州藤原氏(平泉)を征伐した源頼朝は戦功著しい御家人に奥州の土地を恩領として分け与えました。その鎌倉から移住した関東武士団が持ち込んだ祭祀風習の一つが板石による「板碑(いたひ・いたび)」です。そもそも関東式とされる武蔵式板碑とは形状や使用した石の質が決まっているようです。(石は秩父地方産出の緑泥片石)信仰標識や礼拝対象に相応しい荘厳性に満ちた形姿を持つものです。しかし当地方にある板碑の形はかなり自由な形状をしていているのが特徴の一つです。

 北上川下流流域にはたくさんの板碑が残っています。今では木板による塔婆が使用されていますがかつて鎌倉時代には追善や供養の為に造立されていたのは石製でした。旧石巻市には613基・桃生町には256基・北上町には271基・雄勝町には61基そして河北町には554基が確認されています。県内には4856基確認されていますから石巻地方には県内の約3割が旧河北町には実に1割以上の板碑が存在することになります。また県内最古の板碑は河北町にある文応元年(1260年)の板碑で石巻市には二位の文永二年(1265年)の板碑があり県内の他地域に先駆けて造立された地域であることがわかります。
当庵には尾崎にある全基数の約8割程の板碑が所在しています。まだまだ裏の杉林に相当数が埋没されているのではないかと思われます。

 板碑造立の目的は3つの意義があるとされます。
1 .塔婆造立功徳によって死者の追福。生者の二世安楽供養に資せんと願うもの。
2. 板碑に掲げた本尊ないし真言などの呪力によってその他の悪霊をはらい清浄の地とするもの。
3. 仏塔であると同時に墳墓としての性格を担うもの。

このような意味合いで板碑は多数造立されました。そのため北上川下流域に板碑の風習が伝わることになりましたがその信仰にも波があり16世紀になると途端に造立は停止されました。
当庵にも沢山の板碑がありますが曹洞宗に改宗されたあとは見られません。東北の地に曹洞宗が広まったことも板碑信仰の衰退の原因の一つではないだろうかとの見解もあるようです。