東日本大震災

当庵では大人五人子供五人が犠牲になり未だ大人一人と子供一人が行方不明です。
兼務している松山寺では大人が三十人子供が十六人犠牲になりました。
甚だ未熟者のため宗教者の端くれでありながらご遺族の皆様方におかけする言葉も見つからずせめて悲しみや苦しみが少しでも早く癒され心安らかに生活できることを祈念申し上げるのみです。また未だ不明な犠牲者が一日でも早くご遺族のもとに戻られるよう願ってやみません。

 


当日(3月11日)

当時、私(住職)は寺におり母親は近所から帰ってきて境内の坂を登り切った所でした。
当地は地盤が固いので揺れ自体はあまり大きいとは感じません(それでも十分大きかったのですが個人的には昭和五十三年の所謂宮城県沖地震の方が大きかったと思います)でしたが時間が異様に長いと思いました。
地震がおさまった後、檀家で消防団員のKくんが「橋のたもとが地盤沈下して車が通行できないので土嚢を積むのを手伝ってほしい」と言って来ました。
土嚢を運んで行ってみると橋のたもとの道路は30~50cm程沈下していました。
檀家さん数人と土嚢を積んだり足場板をかけて出入りする車を数台通行させました。
檀家のOさんちの娘さんが自転車で一所懸命に走り回って逃げ遅れたお年寄りはいないか確認していたのが大変印象に残っています。

尾崎は海沿いの集落ですから大きい地震がきたら津波も当然くるものと理解はしていましたが正直2~3メートルくらいだと思っていました。なぜなら昭和53年の「宮城県沖地震」も経験していますが津波は記憶に残っていないので大した津波はなかったと思っていたからです。

車の出入りも落ち着いたため、橋の上から皆で海面を監視していました。
引き波は多少ありましたが入り江のためかあまり大したことなく第一波と思われる波も50~70cm程でした…が数分(数十分?)後…外海の方(松原の方向)で濃い茶色(どす黒い?)の大きな三角の山の様なものが動いているのが見えました。

一瞬何かわかりませんでしたがそれが津波だと理解するのにあまり時間はかかりませんでした。
「津波だ!!逃げろ~!!」誰とはなしに言い出して皆で走って弘象山に逃げました。
波は松原の防潮林を飲み込みさらに堤防を越え真っ直ぐ田圃の方(釜谷方面)にむかっていった様です。
あまりに衝撃的な光景でしたので写真を撮ろうかとも思いました。
携帯電話は持っていましたがさすがにこの津波では犠牲者もでるかも?と考え撮影するのは不謹慎だと思いやめました。
。「たぶん谷地中あたりまでは行ったかな~?」一つ年上のTさんにそう話したのを覚えています。
この時はまさか釜谷地区や間垣地区まで津波が到達しているとは夢にも思いませんでした。

六人程は山に逃げましたが二人は(車があったためか・・・)車と一緒に橋の上に取り残されました。
あっという間に海水は陸地を覆い向かいの塩田や長面地区の家々や車が流されはじめました。
尾崎地区の家もみるみる一階天井部分まで海水に覆われ止めてあった車も次々流されました。

もちろん松原の松の木は一本もありません。
山の下を見るとYさんちのおばあさんがかろうじて自宅の庭の木に捉まっている状態でした…皆でなんとか助けようにも水の流れが強く手の施しようがありません。
幸いにもおばあさんは後に自力で二階に逃れ大事はありませんでしたが私達はただ呆然と見ているしか無く人間の無力さをまざまざと思い知らされました…。(橋の上に取り残された方々も翌朝無事に避難できました)

一時間程たった頃でしょうか?空が暗くなり雪が激しくなってきたので誰かが「暗くなる前にお寺に避難しないと」と言いました。
道路は海面の下になって歩けませんからKくんの案内で山を登りを墓地まで行きそこから寺まで山を下って行きました。

寺に着くと檀家の方が百名程避難していました。
大変残念な事に寺の下まで避難していたおばあさんが寒いからと車に乗ったままのところを津波に流されてお亡くなりになったという事でした。

寒かったので全員を本堂に集め、寺にあった古い石油ストーブ3台を出して暖をとってもらい、毛布や布団に食料や飲み物を出し、濡れた方々が服はないかというので作務衣やら上着やら出したり…嫁と娘は仙台の実家に行ってたので一人でてんてこ舞いでした
その間にも余震が続き津波もいつまでも治まりませんでした。
ラジオでは様々な情報が飛び交い何がどうなっているのか見当もつきませんでした。

本堂はお年寄りと女性と子供達で一杯でしたので男の人達は外で瓦礫を炊いて暖をとっていました。
夜になると海を挟んだ長面地区にも二カ所焚き火が見えました。「よかった何人かは助かったんだね」などと話していると目の前の海を若い人が二人乗った船がもの凄いスピードで流れていきました。
そのまま流されれば橋の橋脚か欄干にぶつかるか沖に流されてしまいます。
船には船外機がついていましたので漁師さんが船外機をかけて陸に逃げるようにと何度も叫びましたが二人は声もでないようでただ立ちつくしているだけでした…。

夜遅くになり波も落ち着いた頃Kくんが「道路はまだ歩けないが堤防の上は歩けるから様子を見に行こう」と言うのでTさんと三人で水浸しの道路(幸い寺の前あたりは高いので膝下くらいでした)を横切り堤防の上に上がった。
とりあえず漆浜(南)の方へ声をかけながら歩きました。途中のんびり村の前をすぎたあたりの堤防に黒い大きな物体が横たわっていました。私が先頭でしたので恐る恐る懐中電灯で照らしてみるとなんと牛の死骸でした・・・。
かわいそうでしたが通れませんので近くにあった瓦礫の棒で海に落としそのまま進みました。

声をかけながら進みましたが返答も無く・・・一番最後のKさんの家の手前まできた時、山の上から「お~い」と返事がきました。Kさん家族と奥の産廃業者の従業員の人達でした。
寺にいる事を告げたところ暗いので朝に移動するというのでそのまま引き返しました。
戻って今度は弘象(北)の方に向かったところ高台にあるHさんのお宅に十名程が避難していました。
橋の近くまできてTさんが自分の家を懐中電灯で照らしたところ・・・
なんと二階に人影が・・・!?

先ほど船で流されていた若者二人です。

事情を聞くと長面地区の消防団員で避難誘導中に車ごと流され(この時に私の同級生とその子供さんも一緒に流されたらしいのですが残念ながら行方不明のままです・・・)たまたま流れてきた船に乗り移ったが湾の中を行ったり来たり流されている間に引き潮で橋の所まで戻されぶつかる直前に意を決して飛び降り瓦礫の中を泳いで堤防にたどり着いたとのこと・・・
ズブ濡れになり寒くてしょうがなかったのでTさんのお宅の二階に上がり服をお借り(拝借)したという事でした。

何はともあれ助かってよかったと思ったのもつかの間…。
一人が結構な怪我をしていました。
寺に行けば薬もストーブも食料もあるから落ち着いたら行くように話して先に進むと事務所の上の高台に自宅のあるNさんの家に数人とその先のY商店にお母さんと息子さんが無事でいました。

そこから先は瓦礫がひどく進むのを断念し寺に戻りTさんと一晩中瓦礫を燃やしていました。
私は米軍のN-3Bという極寒冷地用のジャケットを着ていましたがそれでも寒く自然に身体が震えてきました。

どこにも人工の明かりの無い星空はものすごく綺麗でしたが、ふと…、海に流された人達はどんなに寒いだろう…と思ったら経験したことも無いような深い悲しみを感じました…。


二日目(3月12日)

津波の影響ははまだあったようですが夜明けとともに皆で付近の状況を確認しました。
尾崎橋は手前が数メートル陥没し長面側は8~10メートル程が津波のため流出し通行不能でした。大浦の林道も瓦礫のため数キロにわたって通行不能で文字通り陸の孤島と可しました。
余震も津波も続いていましたが皆さん自発的に日の出前より付近の捜索と水や食料と燃料等の確保及び道路上の瓦礫の撤去を行いました。

漆浜のKさんが一晩中海の方から助けを求める声がしたというので数名で唯一助かったOさんの船を(瓦礫のため船外機はつかえないので・・・)道路沿いにロープで引いていき漆浜まで行ってみるとKさんの家の前から50~80メートル程の場所に長面地区の方の事務所の二階部分が浅瀬に乗り上げて浮かんでいました。
声をかけると屋根の上に60~70代の男性の方が衰弱しきった状態でいらっしゃいました。
漁師のNさん達が竿をさして船を渡しなんとか救出しました。

同じ頃、昨晩船で流されていた長面地区の消防団の二人(一人は肋骨を折っていたようなのに懸命に捜索していました…)が湾の一番奥の大浦の方に浮かんでいる民家の屋根に人らしき姿があるというので双眼鏡で確認しましたがどう見ても人には見えませんし何より動く気配がありません…。
見間違いだと皆があきらめ移動しようとした時、件の二人が「やっぱり人だ!?動いている」というので
瓦礫だらけの道路ずたいに船を引き1キロ程進むと浦の中程に浮かんだ民家の屋根の上に女の子がいました。
船で近づき「大丈夫か?」と声をかけると「助かった~」と安堵した様子でした。怪我は無いか聞くと足が動かないというのでさわってみると膝から下がジーンズごと凍っていました…。
すぐに火を炊き暖めて解かしましたがどうなるか大変心配でした(後日その子のおじいさんとお会いした時にお聞きしたら大事なかったそうです)暖めながら話を聞くと私の同級生の娘さんで高校を卒業して看護学校に進学が決まっていたそうです(このような悲惨な体験をして助かったのできっと良い看護婦さんになることでしょう)。
他に誰かいなかったのか聞いてみるとやっぱり一晩中(子供から大人までの…)助けを求める声が聞こえていたそうですが夜明け前には聞こえなくなったそうです。
何分にも天災だからしょうがないのですが、もう少し暖かい日ならもっと大勢の人が助かったのかもしれません。

浦の奥の方は比較的瓦礫も少なかったのでNさんらが船外機でいける範囲を捜索しましたが生存者はなく一人の子供の亡骸を見つけて戻ってきました。
長面までは消防警察等も救助に来れると考えましたので浦で助かった二人と長面消防団の二人に仕事で福島からきていて被災した方(橋の上でトラックが横倒しになっていました)と産廃業者の方を長面の神社の下まで船で渡してもらいました。神社には長面地区の方々が幾人か避難しておられましたが皆さん疲れ切っていたようです。

寺の隣で自動販売機屋さんを営んでいるKさんのお宅の倉庫にはたくさんの飲料がありましたのでそれをいただき泥だらけの缶を水で洗って準備しました。また、Y商店の息子さんが仕入れてきた食料が橋のたもとに止めてある軽乗用車に積んだままだというので大丈夫な物(半分くらいは水に浸かってダメでした)だけいただいてきました。
他にも各々被災を免れた食料等を持ち寄りましたが当然ながら足りません。それでも他所で被災した方々の話を聞くと尾崎地区は暖房も食料も多少はあったので恵まれていたと思います。

その夜はようやく飼っている犬と猫と眠る事ができました。
犬も猫も余程怖かったらしく普段とは全然違う様子でしたが一緒にいると少し落ち着いたようでした。
寒いしお腹も空いていたはずなんですが不思議とぐっすり眠れました。



三日目(3月13日)

相変わらず余震は多かったのですが津波は多少収まってきたように感じました。
皆さん夜明け前より行動を開始し。とりあえず上空から発見してもらえる事と避難路を確保するために前日に引き続き道路上の瓦礫を撤去しながら木材は燃やしました。
この日は上空に自衛隊やら保安庁のヘリが確認できましたが向かいの旧北上町の十三浜地区や山の陰の旧雄勝町の名振、船越地区あたりに飛んでくるのがほとんどで当地の上空にはあまり見られませんでした。
私達は陸上を自衛隊や消防の方が救助にきてくれるものと思っていましたが一向に確認できず…水も食料もなくなってきたので船で釜谷地区まで行き補給したほうが良いのではないか?との指摘があり向かう事にしました。
漁師のOさんとKさんに消防団のKくんとYくん。それに私も指名されましたので五人で向かいました。
津波の影響か地形が変わったためか思った以上に外海は波が高かったので安全のため元々田圃だったところを行きました。
水深は浅いところで50cmくらいで深いところは2m程もあったでしょうか?とりあえず松原の排水機場のあたりから北上川か富士川に抜けられるだろうという予定で進みました。排水機場のあたりまでくると案の定堤防は決壊していましたし何より驚いたのは鉄骨がむき出しになった川向かいにある北上総合支所の無惨な姿でした。周囲に民家は確認できず山の上のお寺だけがポツンと見えました。
北上川は流れが強かったので手前の富士川を進み町裏のあたりに接岸し堤防に上って釜谷の町並みを見て愕然としました…谷地中はもちろん釜谷にあった民家は一軒も無く…無数の瓦礫の中に釜谷診療所の建物と大川小学校の校舎だけが残っていました…。
間垣方面は堤防が中学校のあたりまで数キロにわたって決壊し入釜谷から針岡方面は海のようになっていました…。

地獄絵図とはあの様な光景なのでしょう…。

橋のたもとの通称(私が小さい時はそのような名称はありませんでしたが…)三角地帯まで行ってみると消防団や警察それに地元の方達がいましたがみんな唖然としていました。ご遺体も何体か道路上に並べてありその中には檀家の子供さんもいました。その場で皆にお経をあげましたが何もできない自分の無力さなのか文明の限界をを感じたためかわかりませんが大変不甲斐ないような情けない気持ちでいっぱいでした…。

消防団の方々は山の際のところに子供達の遺体がまとまっていたのを発見し多数収容していました。船で一緒にきたKくんもYくんも合流して一所懸命に捜索していました。Kくんは自分の子供達も学校にいて安否もわからず大変辛かったと思いますががんばっていました。
OさんとKさんは消防に依頼され(堤防が切れているので)船で中学校から橋のたもとまで消防士や消防団員それに警察官を乗せてきて戻るときに雄勝地区から避難してきた人達を中学校まで乗せて避難させるという作業をなさっていました。

どこかの母親らしき人が瓦礫の松の木に挟まれている(たぶん知り合いの)子供さんを発見し早く出してあげてほしいと警察に訴えていましたが残念ながら人間の力でどうにかなる大きさでもなくバランスも悪そうに見え今にも倒れそうでしたので重機がきたら最初に助けるからと説得し(危険なので)その場を離れてもらいました。

たくさんの人達の中に檀家さんや知ってる人達がいていろいろ話を聞きましたが誰も今回の震災の詳しい状況はわからず大変混乱していました。その中に中学の二年先輩のSさんがいましたが小さいお子さんがいるとは知らず「助かってよかったね」と声をかけましたら「何も良くない…子供が学校に行ってて行方がわからないんだ…」と言われまして大変不用意な事を言ってしまったなと後悔しました。
Sさんのように多くの親御さん達が子供の安否を確認するため集まっていましたが機械もなく人力で探すのには不可能とも思える瓦礫の量でした。

尾崎地区の方も数名いて一つ上のNさんは石巻市内で仕事中に被災し日和山に避難したらしいのですが家が心配なので水に浸かりながらなんとか釜谷まできたらしいです。ご家族は無事お寺に避難していると伝えると安心していましたが震災時に上の息子さんが雄勝でバイトしていたということでとても心配していたのですがその話をしているところに件の息子さんが現れビックリしていました。
地震がきて徒歩で逃げているところにたまたま知り合いのお母さんが車で通りかかり乗せてもらって高台に避難し助かったらしいです。他にも大勢避難していた方がいたらしいのですが家が心配だったので雄勝から山の中を一人で歩いてきたそうです。さすが尾崎で育った子供はタフだなと妙な関心をしました。
昼過ぎくらいに消防団の方から食料(おにぎり百数十個)と水を数箱いただき警察に百名以上が孤立している事を伝えて船で尾崎に戻りました。消防団のKくんは子供達の捜索をしたいということで残りましたが尾崎のKさん(息子さん)を乗せましたので帰りも五人でした。


尾崎に戻って皆に見てきた事を全部伝えました。子供達の親御さん方もいたので躊躇したのですが隠してもいずれわかる事なので正直に話した方が良いと思ったのですがやっぱり複雑でした・・・。
また驚いたことに寺の総代をしていただいているKさんと神社の前のKさんが入釜谷から林道を歩いて尾崎に来ていました。私は林道があることは知っていましたがどこからどこまでつながっているのかも知りませんので正直ビックリしました。

数時間後自衛隊のヘリが救助にきました。よく覚えていませんが海上自衛隊(たぶん厚木基地所属の哨戒機…)のSH-60Jだったと思います。ヘリが着陸できる広さの平地がありませんでしたのでホバリングしたまま隊員がロープで降下してきました。状況を説明して無線で連絡していただき救助がはじまりました。

救助方法はホバリングしてウインチで吊り上げる他ありませんでしたので地上に一人の隊員が降りてきて後は皆で協力し(特に元自衛官のTさんが)ジャケットを着せたり誘導したりしながら一人ずつ乗せてもらいました。
とりあえずお年寄りから順番に乗せましたが一機あたり数人しか乗れませんので海上自衛隊のSH-60JとSH-60K(?)が交互に何回もきました。
時折風が強くなる最悪のコンディションでしたが自衛官達は一所懸命にがんばってくれました。
夕方暗くなるまで全体の半数くらいを救助していただきその日は終わりました。

体中砂だらけなのとヘリの音が耳から離れませんでしたがどなたかがビールを差し入れてくれたので(普段は飲まないのですが…)一気に2本飲んで寝ました。


四日目(3月14日)

夜明け前に目が覚めました。
朝から救助がはじまります。今日は陸上自衛隊の(たぶん…)UH-60JA(ブラックホーク)が救助にきました。皆さん手慣れたもので次々に救助されていきます。
ですが途中で問題が発生しました。それはご遺体とペットの事でした。
航空法の関係でご遺体もペットも貨物扱いになるので生きている人間とは一緒には運べないというのです。さらに動物はケージに入れないと運べないとも…。
これには皆さん困りました。
ご遺体を運べないのであれば一緒に残るとご遺族ご親戚の方々が…ペットを連れていけないのなら残ると飼い主の方々が…。

ご遺体を吊り上げるのは危険なので着地できる場所があればご遺体は運べると決まったのですがペットに関してはケージがなければ運べないと言われ皆さんで侃々諤々…。

尾崎橋を渡った所の塩田跡にヘリが降りられるのでは?というので自衛官に確認してもらったところ瓦礫も少ないので着陸可能との事。そこまではご遺体を船で運ぶと決まりましたがペットに関しては自衛隊にも海保・警察にもケージはなく置いていく事に…。
数人の飼い主さんが残ると仰ったので(お寺も心配ですし…)「ウチにも犬と猫がいますから…代表で私が残って餌をやります…。」と説得してとりあえず皆さんに避難していただく事になりました。
最後の方達が救助されたのは昼前(10時か11時頃)だったと思います。
皆さんを救助していただき少し安心しました。

一人になったらいろいろ気になり浄髪(頭の毛を剃る)をしたりタオルを濡らして身体を洗ったりして多少サッパリしました。その後部屋を片付けたり残っている食料や水を一カ所にまとめたりして自分なりに備えていました。
午後に水と餌をもって犬がいるお宅を回り餌やりをしました。隣の家の鳩も見ましたが餌も水もあり元気そうでした。

夕方になってようやく落ち着いてラジオを聞きましたが状況がわかる程どんどん被害が大きくなっていると思いました。やっぱり尋常の災害では無いようです。

暗くなってすぐ布団に入りましたが一人になって不安なのか余震で目が覚めます。しかも地震の前に山鳴りがするので揺れる前に気づきます。犬も猫もわかるようで怯えていました。
その夜はなかなか眠れませんでした。


五日目(3月15日)

今日も夜明け前に目が覚めました。
起きてすぐ海に行きお経をあげました。すると堤防から数十メートルのところをご遺体とおぼしき姿が二体流れて行きました…陸に上げようと思いましたが残念ながら船もなくどうする事もできませんでした…。経を唱え形ばかりの供養はしましたが、またしても己の無力さをまざまざと思い知らされました。

寺に戻り犬と猫に餌をあげその後檀家さんの犬の餌やりに向かいました。
正直それまでは一人でいても怖く無いと思っていたのですが全く人の気配が無いというのは底知れぬ恐ろしさがありました。そういえば震災後は鳥のさえずりも聞こえません。

私は趣味で書を集めていますが特に「頭山満」先生の書が好きで数十点あります。その頭山先生が弟子に「本当に偉い人間とはどんな人間ですか?」と問われた時に「偉い人間とは一人でいても寂しく無い人間だ」と答えた逸話を思い出しまさしくこういう事か…と妙な感心をしました。
やっぱり私は偉くなれそうにもありません…。
それほど何の気配も無いというのは寂しいというか恐ろしいものでした。

自衛隊からいただいた乾パンを食べながら生来楽観的な私は今日・明日には長面のあたりまで自衛隊か消防が陸上を捜索に来るだろうから、その後石巻あたりでケージを入手して車で戻ってきて犬と猫を連れていこうと考えていました。

何をしたらいいのか思いつきませんので、一日中本堂を片付けたり庫裏にいってガラスの破片を掃除したりしていました。夕方近くにまた檀家さんの犬に餌を与えに行き帰ってきてすぐ残っていたビールを二本一気に飲んで寝ました。しかし山鳴りと余震のため目が覚めてなかなか眠れずラジオを聞いていましたが内容は一切頭の中には入ってきませんでした。


六日目(3月16日)

夜中に大きな山鳴りがしたので目が覚めてそのまま起きていました。
今日は霧が濃くすこぶる視界が悪いです。洗顔してから海にむかって経を唱え近所の犬猫に餌をあげ隣の家の鳩舎を見に行きましたが水・餌ともあり問題のない様子でした。

早朝より上空を多くのヘリコプターが飛んでいる模様ですが霧のため機体は確認できません。
橋のたもとまで行って塩田や長面のほうを双眼鏡で覗きましたが自衛隊はおろか動く者は何も見えません。見える物はおびただしい瓦礫だけです。
寺に戻って(地震後)本堂の前に上げた車を調べましたら少し手前(低い)ところに停めた先代住職の乗っていたカローラはエンジンはかかりますがアクセルが吹けません。よく見ると運転席の足下まで海水がはいったようです(後に廃車にしました)。

今後どうしたものかと思案している時鍛冶間(かじま)を通って長面に抜ける林道(三日目に総代さんと神社の前のKさんが通ってきた道)があるのでとりあえずウチの犬と猫を連れて避難しようかと思い立ち犬は歩けるけど猫はダメだろうからとバックに入れようとしましたが暴れて上手くいきません…。
あきらめてまたお寺の片付けをしました。

遅い朝ご飯(乾パンw)をとっている最中もあいかわらずたくさんのヘリの音がします。半島の裏の名振や船越の方に飛んでいるのでしょうか?
そのうちもの凄い音がしました。霧で全く見えませんが音のする方を見ると確認灯らしき物が見えます。どうやらヘリが超低空で集落沿いを飛んでいるようです。尾崎地区の捜索しているのでしょうか?何度も往復している様子です。
どうしたものかと思いましたが誰にも連絡がとれず心細いのと早く犬と猫を連れて避難したいので状況を聞いてみるかと思い下の道に降りて発煙筒を炊きましたら上空のヘリがのんびり村さんの前の堤防に降りてきました。
見ると海上保安庁のヘリ(小さいのでたぶんベル)でした。堤防の上に着地(というよりホバリング…)して中から保安庁の保安官が出てきてこちらに歩み寄り「どうなさいましたか?いつからいるんですか?あなた一人ですか?」と驚いた様子で矢継ぎ早に質問してきたので震災後の状況を説明すると未曾有の震災のため陸上から尾崎に捜索(救助)に来るのはいつになるか不明とのことと退去命令(避難指示?)がでているので避難してほしいと言われました。難色を示していると「犬猫は一旦避難して後日ゲージを持って皆さんで連れにくれば良いのでは?」と至極真っ当な答えが…そうか!?その手があったか!!と六日目にして初めて気づいた私でした…(汗

とりあえず少しだけ待ってもらい近所の犬猫とウチのにも餌と水をあるだけ与え着の身着のままヘリに乗りました。
海上保安庁の記録はこちら

北上川を上って飯野川あたりに降ろしてほしいとお願いしましたが霧が濃く危険なので半島沿いを石巻まで飛び市営球場に着陸するとのこと。途中携帯の電波が入るとずっと受信中(石巻に着いても受信中のまま操作できず…)になり結局は着信履歴も留守電の伝言もメールも全て満タンになりました…(@@

飛行中ところどころで霧が晴れ下界が見えましたがどこも大変な惨状でした。特に旧石巻市街では日和大橋の横の防波堤に石油タンクやら大型の漁船やらが打ち上げられていたのには驚きました。雲雀野から南浜町までは瓦礫の海とかしていて門脇町には市立病院の建物以外何もなく門脇小学校は焼けたようでした。川の反対の魚町も瓦礫だらけで川の中の中瀬は唯一漫画館だけが確認できるありさまで内海橋はわかりましたが岡田劇場はわかりませんでした…。

そのまま川沿いを上って開北橋を過ぎたところから旋回し野球場に着陸しました。保安官に感謝の言葉を伝えているとマスコミの方らしき人達がこちらにむかってきましたが市の職員らしき人に制止されていました。陸上自衛官がきて今空いている避難所までお送りしますといっていただいたので聞くと旧河南町内とのことそっちじゃなく飯野川まで送ってほしいとお願いすると下士官らしき人が「本来はダメなのですが…特別にと」快く了解してくれました。

自衛隊のトラックに揺られ県道を南境から北境・二俣と来ましたが人影もなくほとんど車とすれ違う事も無く辻堂まで来たとき友達がいるのを思い出しそこで降ろしてもらいました。友達のSくんの家に行くとご家族皆さんご無事でしたがSくんは私の顔を見るなり「生きていたのか~?あの状況じゃあもうダメかと思っていた悪運は強いなぁ~?」とお褒めの言葉?をいただきました。
実は海藏庵の参道に階段をつけてもらおうと思い震災当日の11日の午後3時に尾崎で業者さんとSくんと打ち合わせの予定をしていました。Sくんは当日三輪田の堤防を尾崎に向かって走行中に地震に遭い地割れやら何やらで尋常ではないと思い自宅に引き返した(ちなみに業者さんも無事でした)そうです。
また震災当日の夜にウチの家内と娘が尾崎に行こうと思い谷地の神社のあたりまで行ったが間垣の堤防が決壊して通行できず戻ってきてSくんの家に寄っていったということを教えてくれました。

その後Sくんに乗せてもらい避難所になっている飯野川のビックバンと飯野川中学校の体育館に行き檀家の皆様と無事に再会することができました。