海藏庵

 海藏庵(かいぞうあん)は石巻市尾崎(おのさき)にある開創約七百年になる曹洞宗のお寺です。


 歴史

元々は現在地より数百メートル南側の久須師神社のあたりに草庵があり古くから僧侶が住んでいたと思われます。
海藏庵に残る板碑から延元元年~貞和4年(1335~1345年)の間に天台宗の寺院「海藏」として建立された(一番古い板碑は弘安10年1287年でありこれ以前に開かれたという説もあります。歴代の住職は弘安10年に開かれたものとして法要を行っています)と考えられており「玄龍」なる高級武士団の(長?)「義有大禅定門」(詳細は不明であるが当時大禅定門は葛西太守のみに許された称号であることから太守クラスの人物とされる※① )なる者の支援で創建されたようです。その後臨済宗さらに曹洞宗の寺院として現在に至っております。
同時期に開山された寺院は奥州における曹洞宗の本山として岩手県北上市の正法寺が貞和4年(1348年)に石巻市吉野町の天台宗日輪寺(現曹洞宗多福院)が貞和年代石巻市の時宗専称寺と旧河北町東福田のお寺(寺院名不明現曹洞宗長泉院か)がそれよりやや遅れ石巻市の曹洞宗梅渓寺が貞治2年(1363年)です。
臨済宗寺院としての開山は「建長大通大和尚」※②といわれ延文5年(1360年)3月中旬に開山「洞叟仙公大和尚」(大通禅師かその弟子に師事していたと思われる)が永和2年(1376年)4月3日に住寺したとされています。
宝暦年間をはじめ数度の火災に見舞われたため寺の縁起・寺暦・過去帳等は消失し詳細は不明ですが臨済宗時代の本尊「聖観世音菩薩」は鎌倉建長寺開山の「大學禅師」(大覺禅師・蘭渓道隆)が開眼したと伝えられています。
元亀3年(1572年)正月に雄勝町の雪峰山天雄寺六世「大桂春応大和尚」により曹洞宗に改宗。現庵主は曹洞宗寺院として十九世です。お寺の歴史の割に住職が少ないのは小さなお寺であったので住職のいない(無住の)時期や他宗派の僧侶が住職を務めていた時期があるためと考えられます。
明和9年(1768年)儒者田辺希文が藩主(仙台藩七代藩主伊達重村か)の命により海藏庵の板碑三基を調査確認したとの記録が残っています。

は寺・院・庵のいずれか

石巻地方に「大禅定門」とする例は吉野町多福院にある蓮昇大禅定門(葛西家八代満良とされる)の応永8年(1401年)一周忌・永享4年(1432年)三十三回忌塔と伊原津法山寺にある文明19年(1487年)昭蓮大禅定(葛西十二代満重とされる)また特定できていませんが元徳3年(1331年)の安養寺殿大禅定門の三例があります。

※②後述の鎌倉建長寺十一世が大通禅師という来日僧(西澗子曇)ですが禅師は嘉元4年(1306年)に遷化なされているので年代が合いません。当庵の開山は全くの別人かもしれませんが本尊を大覚禅師が開眼した等の伝承から当庵の記録(大正9年10月に十六世文雄和尚が記した過去帳)が間違っているかあるいは遷化後に勧請開山としたのかもしれません。弘安年間の前後に臨済宗寺院として開山したのであれば辻褄はは合うと思いますが詳細は不明です。

※③鎌倉時代の臨済宗の僧。西蜀培江の人。俗姓は冉。蘭渓は道号で道隆は諱。謚号は大覚禅師。無明慧性の法を嗣ぐ。来日して京都泉涌寺の来迎院に寄寓その後鎌倉寿福寺などに歴住したのち北条時頼の帰依を受け建長寺開山となる。また京都建仁寺で後嵯峨上皇に宗要を説いた。北条時宗の後援で建長寺に再住し円覚寺建立のために寺地を選定した。鎌倉禅宗の基礎を築き後世に大きな影響を与えた。弘安元年(1278年)示寂。世寿六十六才。


 宗派 曹洞宗(月泉派)
 本山 大本山永平寺・大本山總持寺
 本尊 聖観世音菩薩
 本寺 雪峰山天雄寺(石巻市雄勝町)
 山号・寺号   潮生山・海藏庵
 開基 不明なるも義有大禅定門と推察される

 歴代住職
 天台宗
開山  不明
 ◆臨済宗
開山  建長大通大和尚(勧請開山と思われる)
    洞叟仙公大和尚(創建開山)
    妙幸禅師   (詳細不明)
    天翁満公庵主 (詳細不明)
    聞公庵主   (詳細不明)
 曹洞宗
開山  大桂春応大和尚(中興開山 天雄寺六世)
二世  南元宗超和尚
三世  明庵宗察和尚
四世  観峯傳宗和尚
五世  春山宗悦大和尚(浄音寺六世)
六世  通遙幡玄和尚
七世  歩山海雲大和尚
八世  本有道鱗大和尚(転住)
九世  豊岩春隆大和尚(転住)
十世  他山号不和尚 (他宗派で号不明の意)
十一世 泰隋德淳和尚
十二世 聖麟本祝(悦)大和尚(松山寺十一世)
十三世 快山文壽大和尚
    有巖德麟和尚
    法山活應上座
    智観全應上座
    行英天瑞和尚
    大孝良安和尚
十四世 佛心圓良大和尚(当庵退住後熊本県八代郡金剛村に於いて示寂)
十五世 雲龍道弘和尚 (姓 熊谷 統禅寺へ転住)
十六世 英學文雄大和尚(姓 佐竹 中興 長源寺徒弟 浄音寺 長源寺 龍源寺へ転住)
十七世 大鱗秀明大和尚(姓 佐竹 養雲寺徒弟)
十八世 辺海典雄大和尚(姓 佐竹 重興 松山寺徒弟 同兼務)
十九世 現住 禅海泰生(姓 佐竹 浄音寺徒弟 松山寺兼務)

大通禅師(1249~1306年)は謚で名は子曇。臨済宗揚岐派松源派。中国台州(浙江省)仙居の人。文永8年(1271年)将軍時宗の招きにより来朝。東福寺の円爾・建長寺の蘭渓ともに相待す。弘安元年(1278年)元国に帰るも正安元年(1299年)一山一寧の来朝に付随して再び来朝す。執権貞時これを請じて弟子の礼をとる。相模の円覚寺に住し続いて建長寺に移る。徳治元年(1306年)10月正観寺に退去し28日に至って示寂。世寿五十八歳。建長寺の伝灯庵に塔す。

 


 海藏庵の本末関係

国内の多くの仏教寺院には本末制度があります。本末制度は江戸時代に幕府が仏教教団を統制・管理するために設けた制度だと考えがちですが曹洞宗ではそれ以前から(主に)師弟関係による本末の制度がありました。
当地方では北上町女川江林寺の先住武山梅芳老師が県内の曹洞宗寺院をくまなく調べ貴重な資料として残されています。その資料によれば海藏庵は元亀3年(1572年)雄勝町天雄寺六世大桂瞬翁大和尚が(曹洞宗寺院として)開山いたしました。松山寺は文明12年(1483年)天雄寺五世洲山見爺大和尚が開山しております。同門のお寺として名振満照寺が五世洲山見爺大和尚・立浜龍澤寺が六世大桂瞬翁大和尚・船越瀧泉院が七世白翁豊天大和尚によりそれぞれ開山されています。
天雄寺は古川の嶺松山萬年寺4世笑岳良闇大和尚により康正2年(1456年)に開山され萬年寺は応永11年(1403年)正法寺2世月泉良印禅師の門弟の巨泉良珍大和尚により開山されています。

岩手県水沢市にある大梅拈華山圓通正法寺は永平寺・總持寺に次ぐ曹洞宗第三の本山と呼ばれ貞和4年(1348年)無底良韶禅師により開山されています。その勢力は東北地方を中心に遠く関西にまで広がり曹洞宗教団の形成に大きな役割を果たしてきました。往時末寺の数は508ヶ寺とも1200ヶ寺ともされていました。
正法寺は能登の總持寺の末寺ですからわかりやすくいえば海藏庵は總持寺の孫末の孫末になります。

当庵十八世の典雄和尚は正法寺で修行をいたしました。今でも子供の頃よく典雄和尚に聞いた正法寺の七不思議の話をおぼえています。

無底良韶禅師(1313~1361年)能登国の出身で大本山總持寺二祖峨山韶碩禅師の高弟。峨山禅師には25人の優れた弟子(二十五哲)がおりましたが無底禅師はその第一番に列せられています。